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2024の元旦はICUで

Mimi 2024.04.10

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昨年の年末はいつものように別荘へ行った。楽しくお正月を過ごした後、東京に戻って来る予定だった。


さて12月30日、息子一家はレゴランドへ。私は午後お庭へ。
植木屋さんが完璧に仕上げてくれた美しい庭に肥料を撒くためだ。肥料くらいは自分でやろうと決めている。シャベルを持って出て、シャンペトルという薔薇の根元の土を掘ったのまでは覚えている。


次に気づいた時、私はコンクリートの道にうつ伏せで倒れていた。別荘は石垣の上に建っていて、私はどうやらその石垣からまっさかさまに下の道に落ちたらしい。いつの間にか辺りは暗く、雨まで降っていた。


どうやって家の中に入ったのか覚えていない。気分も悪く頭も痛い。息子に電話しなくちゃ、とスマホを取り出すが、言葉が浮かばない。
そこで、紙に言いたいことを書いてみる。「おちた。あたまが痛い」あっ書けた。文字は書けるのだ、とわかる。


息子に電話。さっき紙に書いた言葉を読み上げる。言葉が出ないので繰り返すしかない。
息子が「救急車を呼んで」と言っているが、救急車を呼んでも、自分の住所を伝える自信がない。例え救急車が来ても、玄関まで歩くことも出来ない。
とにかく息子たちが帰ってくるのを待つことにする。


息子は帰ってくるとすぐに、2キロほど先の総合病院、徳洲会に電話。
救急の予約をする。OKが出ると車で出発。病院の救急外来の入り口で車を止めると、息子は「ちょっと待っていてね」と言い、病院から車椅子を借りて来た。息子はこんな経験は初めてだろうに、何と要領よく行動するのだろうと感心した。


そこのあたりからは、記憶が途切れ途切れなのだが、ベッドの脇でお医者さんと思われる人が「生きるか死ぬか確率は半々です。」と言うのは聞こえた。
その時「えっ、そんなに悪いの?」と初めて認識。「ここで私の人生が終わってしまうの?」だが、なぜか動揺せず、そんなものかと思う。そのお医者さんには、状態を教えてくれたことを今も感謝している。


病院は、コロナの流行を受けて、すべての入院患者の面会禁止だ。だが、息子は特別に私のベッドの脇まで来ることを許された。
私は、枕元の息子に、お墓のこと、地下室の手紙や日記類は読まずに処分して欲しいこと、など希望を伝える。息子は、復唱して記憶する。


今回の怪我は予想外だったが、家の地下室を片付ける必要を感じ、業者の人に頼んで、本の段ボール箱を取り出して、床を掃除して貰ったところだった。だが、懸案の書類の処分はまだだったのだ。


「最期」になるかもしれない会話の後、息子は帰り、それからわたしの闘病生活が始まった。


とにかく、頭が痛い。首をちょこっと動かしただけでめまいがする。少しでも起き上がろうものなら、あたりがぐるぐる回る。メリーゴーランドに乗っている気分だ。遊園地で乗り放題、無料のメリーゴーランドに乗っていると思えばいいのだ、と自分に言い聞かせるのだが、なかなかそうも行かない。メリーゴーランドに乗っている時みたいに、キャーキャー叫べたらいいのだが、ぐっと我慢。


腕は点滴に繋がれ、酸素マスクを着用し、身動きが出来ない。ICUを出て個室に移った時、困ったのがトイレだ。部屋のトイレに行くのに、いちいち看護師さんを呼ばなければならない。点滴をつけたまま車椅子に移動し、酸素マスクを外すと今度は小さな酸素ボンベに切り替え、トイレに連れて行って貰う。トイレが終わると、そこにある呼び鈴を押して、看護師さんに来て貰い、全く逆の手順でベッドに戻して貰う。


息をするのもトイレに行くのも、こんなに人の手を煩わさなければならないなんて、と申し訳ない。
でも、生きるか死ぬか半々の人なら仕方がないか。


そんな時にフト思い出したのが、まどみちおの「フト」という詩だ。
『うふふ詩集』に収められた一篇だが、とても気に入って、自分のノートに書き写したのだった。もう十数年前のことだ。


「フト」  まどみちお
 この世は・・・
 とフト思った
 最後のさよならを
 いうべき相手だなあと
 がすぐ
 笑い出していた
 となりの
 あの世んとこにいくのに
 チト
 大げさやなあと
 うふふ
 けど・・・
 やなあ
 フ


この詩をノートに写した時、まどみちおのように80歳も過ぎると、こんな風にあの世のことを考えるのかしら、と思ったものだ。健康で元気に暮らしていたわたしには、死は遠い存在だった。
そして、詩をノートに書き写したことさえ、忘れてしまっていた。


それなのに、こうして自分が棺桶に半分足を突っ込んでいるような状態になると、詩は私に蘇り、詩人の逡巡の気持ちーーーあの世はすぐ近くにあるのだけれど、やっぱりこの世と別れがたい感じーーーも理解できるような気がした。


もう一つ思い出したのは、E.E,Cummings (カミングズ)の詩だ。
この詩は大好きで、ノートに写したどころか、それをホンモノの落ち葉で表現して階段ホールに吊るしてあるくらいだ。  


I  


I(a  


le
af
fa  


ll  


s)
one

l  


iness


これは、一枚の葉が地面に落ちて行く過程を現している。カッコの中だけを読むと、a leaf falls となる。カッコを除いて読むと、I loneliness (私、孤独) となる。 af と fa が縦になっている姿は、葉っぱがひらひらと表と裏を見せながら落ちて行くさま。またll は葉っぱが二枚並んで落ちて行くさま。その他いろいろ読み取れる。


まどみちおの詩を書き写したノート

E. E. Cummings の詩をホンモノの葉っぱで写した壁掛け



この詩はヴィジュアル的にも美しいと思っていたけれど、なぜか葉っぱとしか認識していなかった。
でも、思い返してみると、葉っぱだけではなくて、すべての命ある生物に当てはまる詩なんだなあ、と気づいた。生物には必ず死が訪れる。
そして、地面に落ちた時にはひとりぼっちなのだ。


頭痛とめまいに悩まされながらも、わたしは自分の運命が生と死のどちらに転んでも受容する心構えは出来ていた。心の準備が出来ていようといまいが、受容せざるを得ないのが死なのだが。


今ノートをぱらぱらとめくって見ると、山田風太郎の『人間臨終図巻』の一文も見つかった。


 神は人間を賢愚において不平等に生み、善悪において不平等に殺す。


私は賢愚において不平等に生まれたことを嘆いてばかり。
さて、運命の女神さまは、私をもう少し地上に留めておくことにしたらしい。善人だからではないのは承知しているが。


氷枕は手放せないものの、頭痛とめまいは毎日少しずつ治まって行き、点滴や酸素マスクともおさらばして、チョー幸せな入院生活が始まるのだが、それは次回書くことにする。
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