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鎌倉殿と、中尊寺煤払い

M. Christophe 2022.12.28

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NHKのドラマですが、鎌倉殿を見ていて、ちょっと中尊寺まで足を運んでみました。 マルコポーロが書いたジパクグとは、日本の中尊寺も含めて黄金と伝えたようでした。金が沢山、出たんでしょうね。



平泉町は、岩手県南西部にある町です。西磐井郡に属します。平安時代末期に奥州藤原氏の本拠地があった町として有名です。 当時は平安京に次ぐ大都市として栄えました。現在でも、中尊寺や毛越寺などの遺跡から、当時の繁栄を偲ぶことができるのです。

中尊寺のすすはらい。



パタパタパタパタ!と若い僧侶さま方が、ススを払っています。 平泉町平泉の中尊寺・奥山元照貫首さまのところで、2022年12月19日、年の瀬の風物詩「すす払い」が行われました。 僧侶が讃衡蔵(さんこうぞう)に安置されている丈六仏のほこりを丁寧に払い、新年を迎える準備を整えられました。 国重要文化財の丈六仏は、阿弥陀如来坐像1体と薬師如来坐像2体の計3体で、それぞれ約2・7メートル。 作務衣(さむえ)姿の僧侶が、先端に薄葉紙を付けた約2メートルのはたきを使って仏像の顔や体に積もったほこりを丁寧に払ったそうです。 僧侶方は、新たな気持ちで新年を迎えられるよう仏様に1年の感謝を込められました。 来年も皆さんの心のよりどころとなる寺でありたいとのことです。

中尊寺の正月三が日の参拝客は例年約10万人です。2023年は新型コロナウイルスの影響もあり、約8万人が仏さまに手を合わせるようです。

丁寧に丁寧に、煤を払っていらっしゃる。金髪や、金箔が黒くなっていますね。





中尊寺大施餓鬼会が、8月24日中尊寺本堂にて行われました。 本堂前の庭には、三界萬霊成仏の為に、長さ約8メートルの施餓鬼会供養の大塔婆が職人さん方によって据え付けられたそうです。 そして、丈六の御本尊釈迦牟尼如来御手に結ばれた白布の縁(えん)の綱(つな)が、本堂の中をゆったりと伸ばされ、この大塔婆に結ばれたようです。 当日参列した檀信徒の方々はこの「縁の綱」に手を触れながら、ご先祖の御霊を回向するとともにご本尊様の御力をお分けいただきました。



冬の中尊寺金色堂。寒い…冬です。 いつもテレビで、行く年、来る年のテレビにでてくるところ…。  大施餓鬼会法要の中で、奥州藤原氏四代をはじめとする奥州藤原氏精霊、中尊寺檀信徒先祖代々並びに全国有縁の諸精霊の御名をお唱えしてご回向する、法名回向(ほうみょうえこう)と呼ばれる作法があるそうです。 その法名回向では、最初に「照井堰開削先覚者(てるいぜきかいさくせんかくしゃ)大崎掃部左衛門(おおさき かもんざえもん)安心常隠信士(あんじんじょうおんしんじ)追善供養(ついぜんくよう)」と奉読いたします。 照井堰(てるいぜき)とは、岩手県磐井川の厳美渓(げんびけい)上流を水源に一関市と平泉町を流れる総延長64キロメートルの3本の人工河川(疎水)の総称になります。 今から凡そ900年の昔、平安時代の末、奥州藤原氏第三代藤原秀衡公の家臣・照井高春(てるい たかはる)が灌漑目的に開削し、その後多くの方々によって引き継がれ改修されて江戸時代に完成されました。 平泉町を流れて衣川に注ぐ北照井堰は農業用水路としてのみならず、世界遺産の構成資産です。 毛越寺浄土式庭園の水源にもなっており、中尊寺参道月見坂入口を流れているようです。



おやつは、ごまがふりかけてある黄金餅です。 江戸時代初期、東北地方では数年にわたって大干ばつがありました。 稲は枯れ人々の生活は困窮し、年貢米も納められない苦しい生活が続きました。 当時、平泉の大肝入であった大崎掃部左衛門はその惨状をみかね、時の藩主に申し出て税を免じてもらいました。 そして、御蔵米を借りて照井堰改修工事の人夫賃として使い、照井堰の大改修工事に取り組みました。 改修工事は巖壁の掘削などで非常に困難を極めましたが、苦労の末その難工事は見事に完成しました。 ところが、難工事だったため予想以上に費用がかかり、さらに干ばつがその後数年も続いたので凶作となり、借用した御蔵米を返済することができませんでした。 そして、この状況が「お上を欺いた行い」と判断され、その功績は讃えられながらも、平泉太田川渕に於いて大崎掃部左衛門夫妻とも死罪となり、全財産であった田畑すべて召し上げられてしまったのです。 しかしながらその後、藩主の命により「掃部左衛門が公共のために尽くした心情を汲み」その没収財産を中尊寺に寄進し、掃部左衛門夫妻の永代供養が命じられました。 その時以来、中尊寺大施餓鬼会の法名回向では、まず初めに大崎掃部左衛門の霊を読み上げご回向しているようすです。ながいヒストリーです。

平安時代の末、秀衡公の家臣の照井高春氏により開削され、その後、大崎掃部左衛門らによって大改修された照井堰は、その後も仙台藩による改修が行われ、 平泉やその他の多くの人々の力によって守られ、今日も一関・平泉地方の農地で活用されているようです。

中尊寺大施餓鬼会の「縁の綱」は、江戸時代の施餓鬼会が厳修された当初より大塔婆に結ばれていると伝えられています。 この「縁の綱」は、御本尊のお釈迦様と三界萬霊とのご縁を結ぶことはもちろんですが、特に、秀衡公の家臣である照井高春氏の志を受けて、命と引き換えに照井堰を大改修し、 人々の命の水を守りぬいた大崎掃部左衛門夫妻の有難いご縁を忘れることの無いように結ばれた、鎮魂の願いの込められた「縁の綱」であるようです。 そして、1人ひとりが今日多くの有難い縁によって生かされていることを忘れることなく、これからも心を込めて供養していくことが、私たちのかけがえのない人生をしっかりと歩んでいくことになるのだと感じました。



金箔補修工事が始まっています。国宝ですからね。



平泉でいただいた、地域のご飯です。シンプルな平泉町のご飯に合掌。
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