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ガブリエルって面倒くさい!薔薇、ロセッティ、そしてシャネル

Mimi 2022.10.18

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秋バラのシーズンが来た。秋一番に開花したのは、ガブリエル。ガブリエルは、薔薇愛好家の中で人気の薔薇で、その美しさ、香りは並ぶものがないと言われている。

だが、ガブリエルは育てるのが難しい薔薇の筆頭だ。「バラの家」のネットショップでも、育てやすい順に0から4まで番号が振られているうち、ガブリエルは最難度の4である。コマツガーデンのカタログには、購入可能なのにガブリエルが載っていない。育てるのが難しいからだそうだ。
薔薇の専門家でさえ敬遠してしまうのか、薔薇園でもお目にかかったことがない。

私も、育てる自信がなかったから、うちにお迎えするのをためらっていた。生まれつきひ弱な子に下僕のごとく仕えるのは真っ平。農薬いらずで、放っておいても元気に育つ子が良い。

けれど、ガブリエルを実際に見てみたい気持ちが抑えきれず、ついに注文。届いたガブリエルは、蕾の頃からお姫様の雰囲気。雨の日に初花が開いたが、纏った細かな水滴がきらきら反射しうっとりする。それに高貴な香りといったら───!別格だ。


ガブリエルの蕾



雨の中咲いたガブリエル


ガブリエルは寒さに弱いそうなので、今後どうなるかはわからない。戦々恐々としている。

この薔薇が作出される前、私にとってガブリエルといえば、ガブリエル・ロセッティ(Dante Gabriel Rossetti 1828-82)だった。だが、彼はお友だちにはなりたくない人だ。


ロセッティの自画像


なにしろ、モデルを愛人にして奥さんのシダル(Elizabeth Eleanor Siddal 1829-62)をないがしろにする。結局シダルは阿片チンキ中毒になり、結婚して二年後には自殺してしまう。ガブリエルにとっても一抹の後悔の情があったのだろう。棺(ひつぎ)に自分のソネット集を入れて埋葬する。ところが、数年後、友人に勧められたからとはいえ、お墓を掘り返して、棺を開け、詩を取り戻すのだ。写しをとってからお棺に入れれば良かったのに、と思うが、きっと詩を棺に入れた時には、シダルの為だけに永遠に捧げたつもりだったのだろう。


ベアータ・ベアトリクス(シダルをモデルに描いた)


ガブリエルは、ウィリアム・モリス(William Morris 1834-96)が不在中は、モリスの奥さんジェイン(Jane Morris 1859-96)と一緒に暮らしていた。なんて節操のないやつなんだ。


ウィリアム・モリスの妻になったジェイン


だが、その作品(詩と絵画)の素晴らしさといったら!私は、国立西洋美術館に行った時には、「愛の杯」(Loving Cup)をうっとりして眺めずには帰れないし、自分がハープを弾く時には、気持ちの上では、彼の描くハープを奏で歌う乙女(サイレン)の姿になっている。


Loving Cup(愛の杯)



Sea Spell(海の呪文)


彼のその絵を、模写ではなく、海の底で奏でる乙女に描き替えようとしているほどだ(なかなか完成しないが)。


The Pearl in the Shadow of the Sea
Mimi 作(未完成) 板の上にテンペラ



なんで海の底かというと、ガブリエルの“Three Shadows”の一節が頭に浮かんだからだ。

I looked and saw your love
In the shadow of your heart,
As a diver sees the pearl
In the shadow of the sea;

「わたくし」は、あなたの心の陰の中にあなたの愛を認める。海の底の陰に真珠を見つける潜水夫のように。

そのイメージで、海の底の真珠のような存在の、ハープを奏でる乙女を描きたいのだが、心に思い描く完成形とは程遠い。

そして、もう一人、面倒くさいガブリエルがいる。それは、ガブリエル・シャネル(Gabrielle Chasnel 1883-1971)、つまりココ・シャネル(Coco Chanel)だ。

彼女とも友達にはなりたくない。その理由はマリー・ローランサン(Marie Laurencin 1883-1956)に肖像画を依頼しながら、出来上がった作品に対して受け取り拒否したからだ。美しい色合いの、犬や鳥もいる、夢のあるこんな肖像画を描いて貰ったら、私なら嬉しくてたまらない。ガブリエルはどうして受け取り拒否したのだろう。せっかく描いて貰ったのに、画家に失礼ではないか。たとえ気にいらなかったとしても、一応受け取り、代金を払い、クローゼットの奥に仕舞っておけば良いだけなのに。


ローランサン自画像



シャネルが受け取り拒否した肖像画


そんなガブリエルであるが、その作品に対しては、私はおおいに敬意を払っている。先日は、三菱一号館美術館に、「ガブリエル・シャネル展」を見に行った。私は、あの突き返された肖像画を見られるかと期待して行ったのだが、主に陳列されているのは、服と装身具で、シャネルの人となりではなく、作品に限定されていた。展示物に見えてきたのは、一分の隙もない、デザイナー魂である。所謂シャネル・スーツにしても、ポケットをデザインに取り入れて、おしゃれながらも機能美を追求している。


ガブリエル・シャネル展のリーフレット


実は、この三菱一号館のこの展覧会の内装をデザインした人ともお友だちになりたくない。 何しろ、壁紙も天井も黒一色。お化け屋敷のような空間を手探りで進むと、薄暗い照明に、ほんのり服が照らされているという、何ともけったいな展示方法なのである。一緒に行った友人と私は、あまりの暗さに、どちらの方向に進んだらよいかわからず、出口を求めてうろつくうちに、元の場所に戻ってしまい、もういちど暗闇の中を踏み出してみると、さっきは気づかなかったもうひとつの真っ黒な展示室に迷い込んだり、さんざんだった。この内装を考えた人は、ガブリエルの化身か。

美を求める芸術家の心は計りがたい。もともとのガブリエルは、神の言葉を人間に伝えるメッセンジャーである大天使。ロセッティにしても、シャネルにしても、そして薔薇のガブリエルにしても、「美」という神の領域の概念を、私たちに降臨して教えてくれた霊媒であるともいえる。それにしても、ガブリエル本人は人に迷惑をかける。それって、ガブリエルって名付けた親のせい?

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