焼きマシュマロの夏休み───別荘にて
Mimi 2022.09.01
手元にパウチされた一枚の紙がある。「ぼくのたからもの、わたしのたからもの」と題されていて、上半分にランプの絵、下にそれを描いた3歳の時の息子の写真。保険会社の企画で作ってもらった。
30年前のパウチ
ランプの絵の脇には、「ぼくの宝物は食卓のランプ。だって、なくちゃみんなのお顔が見えないでしょ」という息子の言葉。
写真の息子は、はだかんぼうでビニールプールに立って、ホースの水を勢いよく外に向けて発射している。「周囲四メートルのビニールプールはあらゆる冒険の舞台。願わくば君がそこで見つけた満足と喜びを周囲四万キロの地球上に見出さんことを―ママより」と私のコメントが添えられている。
あれから30年経ち、あのやんちゃな3歳はパパになり、私は「おばあちゃん」になった。だが、別荘のランプもビニールプールも健在だ。そして若きママの願いもそのまま変わらない。そして今ではこのパウチそのものが私の宝物だ。
今年の夏も家族で別荘に行った。今回は数日間しか滞在出来ないが、みんなが待ちに待った別荘行きだ。
別荘に行く前に、私は前期の成績を大学に提出しなければならない。気を使う面倒な仕事。孫のゲンちゃんに頼もう。去年の夏、3歳のゲンちゃんが数字や文字を読めるようになっているのに気付いた。誰も教えないのに不思議だ。試しにコンピューターで3ケタの数字の成績入力を頼んだら、喜んでやってくれて、その後の読み合わせまで付き合ってくれた。早いし、ひとつも間違えがない。今回もお願いしたところ完璧な仕上がり。これで気兼ねなく別荘に行ける!
成績の読み合わせをする去年のゲンちゃん
朝6時出発。いつものように息子の運転するカイエンは、大きな車体で飛ばすので、前を走る車が次々とどいてくれる。うちの車庫にあるAMGでも来られるのかと訊くと、アクセルを5mm押しただけで時速100キロ、1cm押すと200キロ出てしまうので、速度違反で捕まるから無理とのこと。お花好きな母に育てられたのに、子供は車好きになるなんて、と感慨深い。ベビーチェアのゲンちゃんはいつの間にか眠っている。既に、パパに似て車好きのゲンちゃん。いつかこの子の運転する車で別荘に来るのかな。
高速道路を降り、山の中を走って別荘地帯に入ると、「テスラ―とベンティーガだ」と息子の声。一軒目の家の車庫の車は次々変わり、見逃せないらしい。私には、単なる白い車だが。数軒先に水色のわが家が見えて来る。赤白ピンクの日日草がプランターでお出迎え。ご近所に住む恭子さんが、一年中お花が絶えないように管理してくれている。感謝。
別荘では、みんなが好きなことをする。皿洗いや洗濯など、手すきの人が自発的にするので、スムーズに家事が進む。運転は息子、料理は私と暗黙の了解で決まっている役割はあるが。
誰もやりたがらない草取りは、庭師さんにお願いしているので楽ちんだ。
早速、息子たちはビニールプールを出して、その中で楽しく遊んでいる。Rub-a-dub-dub, three men in the Tub (桶の中の3人男) っていうマザーグースの詩があったが、まさにそれだ。ぎゅうぎゅうに詰まっているけれど、とっても楽しそう。ゲンちゃんが、ホースを握ってママに水をかけてキャーキャー言わせて喜んでいる。見ている私も楽しくなる。
庭師のおじいさんが、1日でも草取りをしないと草がどんどん生えるからと言って、ひょっこり現れて草取り。それから毎日来てくれた。
息子たちもおじいさんも全然相手がいないかのように、片や水遊びに、片や草取りに励んでいる。
時にはプランターの日日草を摘んできて、水彩で描いたり、パステルで描いたり。のんびりして時が過ぎるのを楽しむ。
庭石の向こうに、見慣れない植物があると思ったら、アガパンサスの咲きがらだった
焼きマシュマロ
前の川
メダカ
さようなら、ハイブリッドのレクサス
1432ピースのマクラーレン
東京に帰ってから挑戦。とうとう出来上がった!
庭師の奥さんがくださった謎の野菜、もしかしたら果物
2連で水仙は天の川で瞬く星に例えられる。3連では水面の煌めきに例えられるが、水仙の喜びに充ちた姿はそれにも勝るのだ。
A poet could not but be gay/ In such a jocund company:
(そんなにも楽しい仲間の中にいて、詩人も愉快にならざるを得ない。)
と詩人は歌う。孤独な詩人の心が、喜びに溢れた水仙のダンスに同期したのだ。だが、その時詩人は、その光景が詩人の心にもたらした恩恵というものに気づいていなかった。
圧巻は4連だ。
詩人が寝椅子でぼうっととしていたり、物思いにふけっている時、かつての水仙の情景が心の眼に突然映ることがしばしばある。それは、孤独の恩恵であると詩人は言う。
And then my heart with pleasure fills,
And dances with the daffodils.
すると、詩人の心には喜びがあふれ、水仙と共に踊るのだ。
ワーズワースは経験が一度心の中に沈積して後、時を経てまざまざと蘇る様を歌っている。多分、真の喜びとは、そんなものではないだろうか。撒かれた記憶の種が、心の中で発芽し、ある日、花開く。実は、この詩を知った大学1年の時には、頭では理解できてもこの実感が湧かなかった。
別荘のお蔭で、ワーズワースの詩がようやく実体験として理解出来た。甘くてねっとりした焼きマシュマロの食感と味付きで。
ワーズワースの詩の冒頭部分