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ワイタンギ条約とスイミングスクール

Mimi 2021.06.30

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ワイタンギ条約(Treaty of Waitangi)は、1840年に先住民のマオリとイギリス君主との間に締結された条約である。
これにより、ニュージーランドは英国の植民地となった。マオリは好戦的な人々で、常に違う部族との戦いに明け暮れる「戦国時代」を生きていたのだが、これで英国女王の臣民としてまとまった。

ニュージーランド北島にあるワイタンギに行くと、ガラスケースに入ったワイタンギ条約の書類を見ることが出来る。
私が、現物のその書類を見たときに、びっくりしたことがある。40を超えるマオリの族長たちのサインが、奇妙な記号だったり、ただの×印だったりしていた。
文字を持たないマオリは、当時アルファベットも知らず、自分なりの記号でサインするしかなかった。だが、条約の内容を理解したからこそ、その印としてサインをしたのだ。

私は、ああ、サインとはこんな×印でも良いのだ、と驚きながらも納得したのだった。


ワイタンギ条約のマオリの族長のサインには、ただの✖︎印もある

さて、3歳の孫のゲンちゃんをスイミングスクールにお試しで連れて行った。
今年の4月のことだ。気に入って貰えるかどうか不安だったが、 最初のレッスンを終えると、ゲンちゃんはかなり乗り気で、嬉々として好きな色のゴーグルを選び、スクールの水着やキャップもその場で買ってスクールの会員になった。
こんなにスムーズに事が運ぶものだろうか?とちょっと心配だったのだが、心配は現実のものとなった。

翌週、スクールに連れて行こうとすると、大泣きするのだ。
ぎゃあぎゃあ泣いて、嫌だと言う。ゲンちゃんのママもお手上げだ。ゲンちゃんはママに、「ボクは泳がなくていい、っておばあちゃん(私)に言って!」と懇願する。
ママも困って、「ゲンちゃんは泳がなくてよいと、おばあちゃんに言って、と言っています。」とゲンちゃんの言葉を復唱する。ゲンちゃんも私もどちらも立てようとしている。ゲンちゃんがあんまり頑なにぎゃあぎゃあ嫌がるので、見かねた私の母まで「そんなに嫌がるならやめれば。」と言い出す始末だ。

でも、私は「任せておいて。とにかく、ゲンちゃんをうちに置いて帰って。」と嫁と母を追い返す。そして、ゲンちゃんを普段は誰も入らない応接間に連れていく。

あまり足を踏み入れたことのない応接間に一人ポツンと連れ込まれたゲンちゃんは、泣きながらもうろたえている。おまけに、ゲンちゃんのツヨーイ味方であるママもいない。
私は言う。
 「その椅子にお座りなさい。」


ゲンちゃんが誓約書にサインした、応接間の白い椅子

ゲンちゃんは、嫌だと言う。だけれど私は容赦しない。
「とにかくその椅子にお座りなさい。」
ゲンちゃんは仕方なく、ちょこんと大きな白い椅子に座る。目がよろよろしている。
私は、おもむろに紙を取り出す。そこには、大きく

「僕は泳ぎます。」

と書かれ、日付と年号が入っている。

その紙をゲンちゃんの前のテーブルに置くと、私は、おもむろに「ゴーグルは、誰が選んだのですか?」と聞く。
ゲンちゃんは、泣きじゃくりながら「ぼく」と答える。水着やキャップについても同じ質問をする。仕方なくゲンちゃんは、「ぼく」と答える。

「ほらね。水泳を習いたいと言ったのはあなたなのですよ。いざとなって、やめてはいけません。ここに、ぼくは泳ぎます、と書いてあるから、サインしなさい。」

私はボールペンを差し出す。ゲンちゃんはサインってなんだか分からないから、戸惑った表情を見せる。

「ここに×を書きなさい。」

ゲンちゃんは素直に指示に従う。私はその×のサインの入った紙を見せて、「さあ、これであなたはサインしたのですから、今更スイミングスクールに行きたくないなどとは、言ってはいけませんよ。」と言う。
ゲンちゃんはすすり泣きながらも、「はい」と絞り出すように言って、うなずく。

実は、これはデジャビュの世界だ。30年前に息子がやはりスイミングスクールに入った時も、自分で望んで入ったくせに、いざ行こうとすると大泣きして抵抗した。
その時も応接間に連れて行って、ソファに座らせると、私は、「お水がおめめに入ってもいいから泳ぎたいと言ったのは誰ですか」と訊ね、自分だと言うことを納得させた上で、契約書の紙に×のサインをさせた。その時息子は2歳だった。だが、×のサインをした後で、ぐずることはなかった。

私は、人間は泳げなければいけない、という強い信念を持っている。
いつなんどき、船が沈没して、長時間海の中で救助を待つことになるかもしれない。池でボート遊びをしていて転覆するかもしれない。 川で遊んでいて流されるかもしれない。どんな時でも泳げれば一命が助かるのだ。他の人を助けられるかもしれない。

2歳で×のサインをした息子は後に水泳の選手コースの一員となり、学校でも水泳部。大学では水球部に入り、今でも現役で水球をしている。
その活動を通じて、多くの先生、先輩、友人に恵まれた。結婚式に来てくれた人の多くが水泳、水球関係だ。
ゲンちゃんは、これからの人生、水泳とどうお付き合いをして行くかは知らないが、泳げることは、一生役立つだろう。

もし、私がワイタンギでマオリの族長たちのサインを見なかったら、私は、息子の泣きの涙に負け、今の息子はなかったかもしれない。
ゲンちゃんに対しても、自信を持って対処できなかったかもしれない。1840年当時のマオリの族長さんたちにカンパーイ!

ちなみに、ゲンちゃんもパパと同じく、誓約書にサインをした後では真面目にスイミングスクールに通っている。最近では大分楽しんでいるようだ。

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