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育ばあはヨーヨー・マに学ぶ

Mimi 2021.04.29

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これまで孫のゲンちゃんの育児には一切かかわって来なかったが、今年の4月1日から育ばあになった。
と言うか、ならざるを得なくなった。ゲンちゃんは3月末日で保育園を卒園、4月からは幼稚園に行くことになったのである。そこで、私がお迎えを担当し、5時まで面倒を見る生活が始まった。

その幼稚園は、家から歩いてすぐの、私も息子も通った幼稚園だ。
息子は幼稚園が大好きで、幼稚園が休みの日にも、本当に幼稚園がやっていないのか確かめに行ったものだ。
雪の日には、幼稚園の入り口の雪かきをしに、スコップを持ってパパと出かけた。息子は「お砂場派」と呼ばれ、3年間毎日お砂場で過ごした。

長じて息子が新婚時代住むことに決めたマンションは、何と幼稚園の向かいだった。「部屋からお砂場が見えるんだよ」と嬉しそうに私に報告した息子の笑顔ったら・・・。
休みの日には、お砂場を眺めてうっとりしているらしい。ちょっと呆れたけれど、人生最初の学び舎を、そんなに深く愛せる人は幸せだ。

ゲンちゃんにも、幼稚園の広い園庭で遊んで、人生を楽しんでもらいたかった。多分息子たちも同じ思いだったに違いない。私が育ばあになるのはすんなり決まった。

幼稚園の帰園時間は早い。4月は11時20分くらいにお迎えだ。うちにやって来ると、パパとママが交代で作ったお弁当をゲンちゃんは食べる。



さて、5時までどうやって過ごそう。そうだ、楽器を習わせようと思いたった。
家にはハープが4台、スタインウェイのグランドピアノ、お箏、その他にもいろいろな楽器がある。だが、3歳ではハープやピアノ、お箏を弾くほど指は強くないし、練習はつまらないだろう。
そうだ、ドラムがいいんじゃないか。私はドラムについては全然詳しくないが、棒で叩いて音を出すのは、楽しいのではないか、と思った。

そこで、ドラム教室に連れて行ったら、正解だった。初回のレッスンでは、先生が流すアンパンマンソングにノリノリになって、スティックでドラムやシンバルを叩きまくり、足でペダルをドンドン踏み、汗だくで壁やら、 椅子やらドラムを支える支柱まで叩いていた。



ゲンちゃんは元から集中力がすごい子だ。だが、こんなに真剣で楽しそうなゲンちゃんを見るのは初めてだった。
将来的には、ハープやピアノに移行して欲しいと思っていたけれど、それはそれとしてドラムを続けるのも良いかもしれない、と思った。

家でも叩けるように、電子ドラムのセットも届いた。大きくなって夜中に練習してもご近所に迷惑をかけないように、電子ドラムにしたのだ。



そんな時に、Audible でヨーヨー・マの”Beginner’s Mind” を聞いた。ヨーヨー・マが自分の子供時代から今に至るまでの思い出や考えを、自分の演奏を交えて語っている。



私は、ヨーヨー・マの演奏は大好きだが、英語を話すのを初めて聞いた。
文法的には正しい英語なのだが、発声や発音が、所謂アメリカ英語ではない。だからと言って、7歳まで過ごしたフランス語風アクセントでもない。
彼の両親の出身の中国語系なのか?でも、そのちょっとぼくとつな英語が何とも魅力的だ。

そしてその深い内容と言ったら!1時間半に、ヨーヨー・マの音楽を形作る秘密が凝縮して述べられている。

ヨーヨー・マが最初に習ったのはバイオリンだった。だが、彼は何回かのレッスンで、すっかり嫌気がさしてしまった。
そんな時に、モンパルナスの映画館で、ニューオーリンズ・ジャズの演奏を聞き、ダブルベースを見た途端「これだ、これが僕のやりたい楽器だ」と決めたのだった。
一番大きな楽器を演奏したい・・・それこそ彼がチェロを学ぶ動機となった。その時ヨーヨーは4歳だった。

ヨーヨー・マは言う。優れた音楽家を作るには3つの要素が必要だ。
一つ目は、両親の音楽の造詣が深く、幼い頃から音楽に触れさせること。
二つ目は、良い先生につくこと。三つ目は、最高の教育を受けさせるために、引っ越しさえもすること。
ヨーヨー・マの場合、両親は音楽家。良いチェロの先生にも巡り合った。(彼女は80歳になっても、ヨーヨー・マがパリで演奏する時には、ノルマンディからわざわざ聴きに来てくれるそうだ。)
また、引っ越しに関して言えば、7歳でパリからニューヨークに移らなかったら、今の自分が無かったろうと言っている。

私はヨーヨー・マの両親と違って、ゲンちゃんを音楽家にしようなどという志は持っていない。
ゲンちゃんは自分の好きなことをして生きて行けばよい。だが、ヨーヨー・マみたいに、深く思索し、探索し、常識にとらわれずに楽しく自分の人生を進める人になって貰いたいと思う。息子に対しても同じ思いだ。

ヨーヨー・マは7歳の時、カザルスの前で演奏した。その時、カザルスは「常に、野球する時間を作りなさい」と彼にアドバイスしたそうだ。
つまり、カザルスは、こう言いたかったのだ。一番大事なのは、人間であること、次に大事なのは、音楽家であること。そして三番に来るのがチェリストであること。

ヨーヨー・マはこの教えを守ってきた。子供の時には、ピアノとチェロの練習、聴覚訓練、対位法など音楽の勉強の他に、フランス語、習字を学び、日記も毎日書いた。
大学では、フランス文化、日中の歴史、人類学、考古学、天文学の授業を取った。そうした勉強が将来の彼の世界観を形作るのに役立ったのだ。

彼は、常識を覆すことも厭わなかった。ヨーヨー・マは、ピアニストとチェリストの関係を対等で、対話する関係へと変えた最初のチェリストだった。
それまで、ピアニストは、単なる伴奏者に過ぎず、チェリストの後方3メートルも離れた暗い所で演奏し、 チェリストは対話でなく、独白をしていたようなものだった。当時、奇異な目で見られたヨーヨー・マの演奏法が、今では主流になっている。

いろいろな国を訪れて、そこの音楽に触れたことも、彼を成長させた。カラハリ砂漠のブッシュマンの女性たちが夜通し歌う儀式を眼にしたヨーヨー・マは、老いた女性に問う。
「なぜ歌うのですか?」すると、女性は答えるのだ。「何故って、それが私たちに生きる意味を与えてくれるからよ。」この体験は彼に音楽が集合的アイデンティティの概念を持つことを悟らせた。

正倉院の琵琶を見ても、その琵琶が日本で作られ、独特な形をしているにせよ、仏教の伝来と同じく、シルクロードを通ってインド、中国などを経て形を変化させながら日本に伝わったのだと思いを馳せる。

アルゼンチン・タンゴの異端児だと思われていたピアソラの音楽に深い願望、絶望、そして誇りを感じとって、それをチェロで表現したのもヨーヨー・マの功績だろう。

ヨーヨー・マはT.S. Eliot の詩の1節を引用する。

We shall not cease from exploration.
And the end of all our exploring
Will be to arrive where we started
And know the place for the first time.

我々は、探検をやめることはない。
すべての探検の終わりは、
我々が出発した場所に到達することであり、
またその場所を初めて知ることだ。

探検の果てに結局始まりの場所に戻ってきたと思うのだけれど、その探検の始まりには見えていなかったことが、見えるようになるのだ。

T.S. Eliot のFour Quartets (「四重奏」)の中のこの一節は、両親の期待を一身に背負って修行し、 チェリストになったヨーヨー・マが常に「自分とは何か」と問い続けて達した答えである。
4歳の時にこれが弾きたい、と自ら求めてチェロを習い出した少年ヨーヨー。チェリストであるより「人間であること」が一番だという悟りの境地がここにある。
そしてこれからも「探検」をやめないという決意が。

題名の”Beginner’s Mind” とは、国ごとに違いはあっても、我々はまず、みんな人間なのだ、ということを意味する。
私たちは、この複雑かつ急速に変化する世界にあって、子供達の好奇心を育て、より良い未来へと進むようにと導かなければならない。
子供達が想像力を駆使し、驚きに満ちた人生を送れるように、と彼は言う。

ゲンちゃんのお蔭で、もとの学び舎の幼稚園に育ばあとして通うことになった私。
今更ながら幼児体験の大切さを認識する。今の自分があるのは、原点であるこの幼稚園であるような気がするのだ。幼稚園のお砂場出身の息子も、同じ思いだろう。

さあ、明日からBeginner’s Mindを持って探検に出よう。ゲンちゃんと一緒に。
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