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究極の楽器。声楽を「聴く」楽しみとは

 2021.02.28

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声楽とは、文字通り声による音楽を指す。それも一般的にマイクを使って声を拡大するポップス等の歌唱と異なり、身体から発する生の歌声による音楽である。
(巨大な劇場だと、それとわからないようにこっそり舞台上のマイクで拡大していることはあるけれど)

「声楽」の対義語は「器楽」であって、声楽以外の音程を伴う音楽は、何かしらの器具、つまり楽器を伴って演奏される。 訓練されていない声は非常に弱々しいものだが、長い時間をかけて鍛錬を積んだ声はどんな楽器にも勝る美しさを放ち、自由に音を奏でることが出来る。音の強弱も音色も自由自在に変化させられるのは、限界まで訓練された声がなし得る奇跡のようなものだ。

そして、訓練された声は羽が生えているかのように、どこまでも飛んでいく。
音響の良いホールで、優れた声楽家が声を発すると、目の前にいる人間から出ている声とは思えないような聴こえ方がする。声がまるで四方八方から飛んでくるような、なんとも不思議な心地である。

声を「聴き比べる」楽しみ



十分に訓練された声と、そうでない声を聴き比べると、普段声楽を聴かない人でもハッキリとわかるくらいに違いがある。 訓練が十分でない歌声はまるで重りがついているかのように感じられるはずだ。
複数人の歌手が出演する舞台など、録音や映像では大差がないように感じても、実際に舞台の演奏を生で聴くと「音の輪郭」がまるで異なるのは大変面白いものである。
様々な歌手を聴き比べること。これが声楽を聴く上での大きな楽しみとなっている人も多い。

クラシックの演奏会というと何かと敷居が高いと思われがちであるが、まったくそのようなことはない。日本は非西洋圏であるにも関わらず、非常にクラシックの演奏が盛んな国のひとつであり、特に都市部では日夜様々な演奏会が催されている。

堅苦しいドレスコードもないし、思い立ったらすぐに聴きに行くことが出来る。
„百見は一聴“に如かず。少しでも興味が湧いたらまずは聴いてみて、声という楽器に驚いてもらいたい。

演奏会は様々あるが、その際のネーミングルールの傾向としてはこのような感じである。

リサイタル

リサイタルは和訳すれば独演会。往々にして演奏者の名前を冠する場合がほとんどである。
声楽の場合はピアニスト(場合によっては弦楽アンサンブルやオーケストラを伴う場合もある)が伴奏者として必要なので、厳密には独演会にはならない。
演奏時間としては休憩を挟んで1時間半から2時間程度が一般的で、間に少しトークを挟むこともある。
一度も聴いたことがない人のリサイタルに足を運ぶ、というのはあまり一般的ではなく、既にどこかで聴いたことがある人の演奏をもっと聴きたい、という動機であることがほとんどである。演奏される曲も、その歌手の能力・魅力を最大限に発揮するためのプログラムとなることが多く、いわゆる「クラシック」な選曲がほとんどである。

コンサート

コンサートは和訳すれば演奏会。独演のものをコンサートとはあまり呼ばないように思う。
基本的に複数の演奏者が出演し、代わる代わる登場したり、あるいは複数人で演奏するアンサンブルを行ったりする。
「未就学児向け」を謳うものや、「クラシック初心者向け」を謳うものなど、プログラムは様々であるし、曲目はクラシックに限らず映画音楽やポピュラーなものも演奏される。
演奏時間は30分程度の短いものもあれば、3時間に及ぶコンサートもあり、多種多様である。
加えて、このようなコンサートは音楽ホールだけでなく、開かれた場所において無料で行われている場合もある。

初めて声楽の演奏会に足を運ぼうと思うなら、まずは出演者の多い演奏会をオススメしたい。
複数の出演者がいればそれだけ多くの声や楽器を楽しむことが出来るし、聴き比べることで自分なりの好みも見つかっていく。
ソプラノの高い響きが好きだという人もいれば、バリトンの深い人間味のある声が好きだという人もいる。
自分の好きな傾向・好きな歌手が見つかる頃には、リサイタルも楽しめるはずだ。

声に「浸る」楽しみ



声楽を伴う最も大規模な作品といえば、それはなんといっても「オペラ」だ。
オペラはただの歌唱に留まらず、歌手は演技を伴って演奏する。また、音楽だけでなく衣装や舞台美術など、様々な要素が融合した舞台である。
1600年にイタリアで誕生したオペラというジャンルは、今でも世界中でファンを魅了している。

私が一番記憶に残っているオペラ鑑賞は、2011年4月に新国立劇場で行われた「ばらの騎士」だ。あの東日本大震災の直後である。

私は大学卒業直後で、これから先食べていけるのかもわからない音楽家の卵だった。
あの日のことは今でも忘れられない。爆発する原発をテレビで見ながら、これから先の世界にどれほど恐怖したことか。あの震災によって、大学の卒業式もなくなり、直近の演奏会もなくなった。

新国立劇場のオペラは、その主要キャストを外国人歌手が勤めることが常であるが、地震と原発事故による影響が未知の状況において、多くの外国人演奏家が日本での公演をキャンセルしていた。そもそも電力不足も叫ばれる中、大きな舞台を開けることも難しい。私は、「しばらく舞台芸術に触れる機会はないのだろう」と思っていた。
ところが3月末になると、当初からキャストを変えてではあるが、舞台が幕を開けるという連絡が来た。驚くとともに、これは絶対に行かなければ行けないと感じた。

「ばらの騎士(Der Rosenkavalier)」はR.シュトラウスのオペラ作品である。初演は1911年ということで、丁度この年は初演から100年という年であった。
作中には、ウィーンの貴族が婚約者へ婚約の証として「銀のばら」を贈るという架空の風習があり、「ばらの騎士」とは「銀のばら」を婚約者の元へ運ぶ使者のことを指している。(結婚する女性に男性が直接ばらを贈るのではなく、あくまでも「騎士」は使者にすぎない)

詳しいあらすじは割愛するが、主要な登場人物としてここでは3人の人物を挙げよう。

まずは元帥夫人。名前はマリー・テレーズという。
夫人であるからして、もちろん夫がいるわけだが、彼女には青年貴族の愛人がいる。

次にオクタヴィアン。
彼が夫人の愛人であり、オペラ冒頭は元帥夫人とオクタヴィアンの情事から始まる。
(序奏はまさに情事を描いている)
夫人の従兄であるオックス男爵から『ばらの騎士』を紹介してほしいと依頼された元帥夫人は、彼を騎士として推薦する。

最後にゾフィー。
彼女がオックス男爵の婚約者であり、オクタヴィアンが「オックス男爵の『ばらの騎士』」として馳せ参じる相手である。
彼らは一目出会って惹かれあい、オペラの最後ではオクタヴィアンとゾフィーは結ばれる。
同時に、元帥夫人とオクタヴィアンの関係は終わりを迎えることになる。

第三幕の終わりには、元帥夫人・オクタヴィアン・ゾフィーによる非常に有名な三重唱がある。3人それぞれの想いが絡み合う、この世のものとは思えぬほど美しい重唱である。
この三重唱が終わり、元帥夫人は一人舞台を去る。
そしてオクタヴィアンとゾフィーは、新しく生まれる愛に喜びを溢れさせる。

私がとりわけ印象深いのは第一幕の最後。
元帥夫人が一人舞台に残り、物憂げな表情で窓の外を見つめる姿。
歳若いオクタヴィアンが今は自分のことを愛してくれているとわかっていても、歳の差のある若い愛人との関係はいつまでも続くものではない、と彼女は悟っている。(オクタヴィアンは17歳、元帥夫人は32歳)
「所詮不倫じゃん」の一言で片付ける勿れ。貴族社会において結婚と愛はイコールで結ばれない悲しいものなのである。
私は女性でもなければまだ20代も前半のピッチピチだったわけだが、この時には彼女の心情とリンクして、わけもわからずよく泣いた。

元帥夫人を演じたのは、アンナ=カタリーナ・ベーンケというドイツ人歌手。
それまでの歌唱がとても素晴らしかったのはもちろん、それでいてこの繊細な演技をこなすということにただただ驚嘆した。ただ、歌手の素晴らしさばかりではなく、そこにはオーケストラの演奏の素晴らしさも関係しているし、舞台上の美術や衣装などの細やかなこだわりの積み重ね、舞台上の全てに関わる様々な人のエネルギーが私を掴んで離さなかった。

震災直後という不安定な状況にあったのも要因としては大きい。舞台に携わる人々もこの状況下での公演ということに、普段以上のエネルギーを溢れさせていたことは想像に難くないし、それを受け取る私も普段以上に感情が動きやすい状況にあったのは間違いない。そういう外的な要因があったにせよ、この時ほど生の舞台から衝撃を受けたのは初めてで、頭で理解する事柄の枠を飛び越えて強く感情が揺さぶられた。そして、この感動で私はまた少し音楽が好きになったのである。

おわりに



ここでは私が考える声楽の楽しみ方の入り口、そして自身が音楽への愛情を深めた一場面を述べた。
これをきっかけに「オペラを聴いてみようかな」と思う人がいればこんなに喜ばしいことはない。が、クラシックを楽しむためにはやはりちょっと予習が必要だ。
例えばオペラなら、どんな登場人物が出てくるのか、どんな物語なのか(特にオペラの冒頭は、登場人物の人間関係など説明なく始まるので、先に理解しておかないと置いてきぼりにされる)は最低限押さえておいた方が絶対に楽しい。

クラシック音楽は、自分の持っている知識と合わせて目の前の演奏を楽しむものである。
知識なしに美しい音楽を聴くだけでももちろん楽しめるが、知識があれば見え方や聴こえ方が変わってくる。
例えば美術館で絵画を鑑賞する際にも、何も知らずに見るのとバックグラウンドを知ってから見るのでは趣が違う。
日本の舞台芸術である歌舞伎や能であってもそれは同じこと。知れば知るほど様々なことに気付ける楽しみがあるということは、まさにクラシック音楽が芸術であると認められる所以だろう。

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