初対面の懐かしい顔
Mimi 2021.01.31
美術館巡りを解禁した。不要不急の外出ではない。健康維持のための散歩替わりだ。
一つ目は、京橋のアーティゾン美術館。
アーティゾンでは、「琳派と印象派展」をやっていた。
江戸に花開いた装飾的芸術の琳派とヨーロッパの都市の近代美術を交互に並べて、「都市文化」という枠組みの中で比較しようという試みだ。
だが、水の表現とか間の取り方とか、無理やりテーマを決めて東西の絵を並べて展示する手法に戸惑った。学芸員に「こう鑑賞しなさい」と押し付けられているような気がした。
私は、自分がテラコッタの作品を作るせいか、彫刻作品に目が行く。
展示方法の違和感を一挙に解消させたのは、エミール=アントワーヌ・ブールデルのブロンズ像「サッフォ」だった。
サッフォは、紀元前6世紀から7世紀に実在した女流詩人。竪琴を手に、思いに浸っている。愛の歌を作っているのだろうか、それとも恋人への思いに酔いしれているのだろうか。小品ながら、そこには歴史と空間を封じ込める宇宙があった。ブールデルの作品を、作品の周りをゆっくり何度も回って鑑賞する。どの角度から見ても美しい。
「サッフォ」エミール=アントワーヌ・ブールデル
その時、ちょっと離れたところに陳列してあるブロンズ像が目の隅に飛び込んだ。
少し俯き気味の老いた男の像。その存在感が辺りを席捲するので、すぐに行ってみたいけれど、もったいなくて足を向けられないような気持を味わう。
だが、その作品の吸引力には抗えなかった。いつの間にか私は作品の正面に立っていた。
初めて見る作品。そして初対面の人物。
だが、何か懐かしい。ずっと昔に会ったことがある気がする。どこでかしら?どうしてそう思うのかしら?その疑問は、タイトルを見て解けた。
「アナトール・フランス像」1920年 エミール=アントワーヌ・ブールデル
これもブールデルの作品だった。当時は、注文主が絵や彫刻を依頼するのが常だったのに、この作品に関しては、ブールデル自身が、アナトール・フランスに胸像を作らせてほしいと申し出たのだそうだ。
この作品を見るまで、私はアナトール・フランスの写真も彫像も見たことはない。だが、アナトール・フランスは私の大好きな作家で、その作家の彫像を、敬愛する彫刻家が作ったところに、不思議な縁を感じた。
ブールデルは、アナトール・フランスの真髄 ―時にファシストだと思われ、時に古臭いと言われながらも、人間愛に溢れている― を見事に表現していると思った。そして胸像から一挙に思い出が蘇った。
アナトール・フランスを好きになったのは、”Je te donne cette rose.” (この薔薇をあなたにあげる)という短編を読んでからだ。
これはLe Livre de Mon Ami (わが友の書)という本に収録されている彼の幼い日の思い出話だ。
「私」の父親は、子供心に恐ろしく思える物を多く収集していて、家の壁には土人の武器がぶら下がり、髪の毛のついた頭蓋骨とか、アルコール漬けになったいろいろな動物のガラス瓶などが溢れていた。
だが、母親の部屋だけは、そういうおどろおどろしい物に浸食されていず、薔薇の花の壁紙が壁全部を覆っていたのだ。母親は、子供にはたいてい無関心で、子供が話しかけても上の空だった。 たまに、その大きな目で息子を見て「ちっちゃなおばかさん」と呼びかけるのだが、それだけで「私」は報われた気がしたのだ。
その母親がある日「私」を抱き上げて、壁の薔薇の花の一つを差し、「この薔薇を君にあげる」と言い、×の印を付けた。
「あんなに嬉しかったことはない。」という一文で短編は終わる。
どんなにこの話に私は魅了されたか。小さな男の子が持つ、母親に対する憧憬の念。
大きくなっても覚えているなんて!この短編を仏語で読んだ時、私はまだ私はまだティーンエージャーだったが、自分もこんなお母さんになりたいと思ったものだ。
いつか、自分も薔薇の壁紙の部屋で息子を抱き上げて、壁に×の印を付けるのだ。
何年後かに結婚。そして別荘を建てた時、私の頭にはまだ昔の夢が残っていた。
ベッドルームの壁紙は薔薇でなくちゃ。イタリアから気に入った柄の壁紙を特別に取り寄せた。
息子が生まれると、私は、いつか「この薔薇を君にあげる」と言う日を待っていた。あげる薔薇も決めていた。そして、ついにその日はやって来た。
ある時、息子がぐずって手に負えない時、私は、彼を抱き上げて、壁の薔薇を指さし、「この薔薇を君にあげる」と言った。とうとうこの言葉を発することが出来た!という喜びに酔いしれる私。
私は予て用意していたペンで、その薔薇に×の字をつけたが、息子はきょとんとしている。何日も経ってから、×のついた薔薇を指さして、「この薔薇は君のよ」と言っても、薔薇を貰ったことさえ忘れたようだった。
まっ、人生ってこんなもの。こちらの思い通りになんて、事は決して運ばないのだ。
息子にあげた薔薇は、今では犬丸宣子さんの大きな日本画の下に隠れている。だが、×印の付いた薔薇は、きっと今もその下で美しく咲いているはずだ。私の夢とともに。