見えぬけれどもあるんだよ
Mimi 2020.04.24
こんなタイトルを付けると、「それってコロナウィルスでしょ?」なんて思われてしまう昨今、金子みすゞの『星とたんぽぽ』という詩が第一節で言及しているのは、「昼のお星」である。
昼のお星はめにみえぬ
見えぬけれどもあるんだよ、
見えぬものでもあるんだよ。
と第一節は結ばれる。
私は普段から筆不精で、手紙を貰うのは好きな癖になかなか返事が出せない。メールだってなかなか出せない。それなのに通信手段だけはどんどん増える。WhatsApp、Line、Messenger, メッセージ等々。もう対応しきれないから、急な用事でもない限りだんまりを決め込んで澄ましている。
でも、今回の騒ぎで、友情って、年中消息を書きあって確かめ合うものでもないんだ、と気づいた。
外国の友人達とも密に連絡を取り合うようになった。Facebookにしょっちゅう投稿する友人達にも、いつものように「いいね!」をポチッとするだけでなく、ちょこっとコメントを書いたりする。
嬉しいことにみんな元気だ。ウェリントンのアンはロックダウンの最中、お庭仕事に余念がない。それに娘の誕生日だの、イースターだのの度、家族の大好物、鶏の丸焼きを作っている。北イタリアのヴィヴィアナは、毎日森を6キロ歩き、家庭菜園から採れた野菜で、お料理をせっせと作っている。ホウレンソウとリコッタチーズのクレープとか、写真を見るだけでよだれが出る。フランスのマルテもカンヌの家から離れて、山の家で過ごし、毎日森を散歩して思索の日々を過ごしている。
Vivianaの作ったホウレンソウとリコッタチーズのクレープ。
Vivianaのパン。ひよこ豆粉、そば粉、オオバコ外皮で出来ている。
さすが私の大好きなお友だち、どんな時にも心豊かに過ごす術を心得ている。冒頭に書いた金子みすゞの詩ではないが、その人たちとの友情は昼のお星のように普段は見えないけれど、こんな「夕闇」の状況下で、明るく光り、私たちをつなげ、照らしてくれる。
私の生活もやることがたくさん。チューリップのつぼみが咲いて、開ききるまで描いて見た。パンもほぼ毎日焼くので、とうとう25キロ入りの小麦粉を買ってしまったくらいだ。
開きすぎたチューリップを描いてみた。
モラセス入りのライ麦パン。
またある時は別荘に行き、20本以上の木を植えた。
別荘の庭に20本ほどの苗木を植えた。
さて、先の金子みすゞの詩の第二節は次のようなものである。
ちってすがれたたんぽぽの、
かわらのすきに、だァまって、
春のくるまでかくれてる、
つよいその根はめにみえぬ、
見えぬけれどもあるんだよ、
見えぬものでもあるんだよ。
理不尽な夫から幼い娘を守るために、自分の死後娘の養育は自分の母に、と遺言を書き残して命を絶った26歳の詩人。命と引き換えに、娘を守った母の心情を三歳の娘は理解しただろうか。自分を残して死んでしまった母を恨んだこともあったのではないか。
実は、最近になって私も母の思いを感じることがあった。
子供の頃から十数年続けたピアノのお稽古。母は私を容赦なく毎日ピアノに向かわせた。石造りの家の高い天井の洋間。寒い冬はかじかんだ指をストーブで暖めながらの練習。辛かった。その母のお蔭で、いつの間にか難曲も弾けるようになったのは事実だが、感謝なんてしたことはなかった。大学に入ってお稽古をやめ、終にはピアノも処分してしまった。
ところが、私ときたら、このたび自分の意志でピアノを手に入れたのだ。注文したのは、コロナ騒ぎが始まるよりずっと前だが、今ではちょっと暇があるとピアノを弾いている。何という楽しみをピアノは与えてくれるのか。気づくと夕方だ。昔の楽譜を引っ張りだしても、そうそうは弾けないが、繰り返し練習すればいつか、という期待感もある。
母に口に出しては言っていないが、子供の頃に無理やりお稽古をさせて貰って感謝。将来こんな風に、楽しみとして弾けるように習わせたに違いない。母と私の、タンポポの根っこのように繋がった絆。「見えぬけれどもあるんだよ」と感じる。
ピアニストになった孫の玄ちゃん。