私が経験した「これ以上ない」体験とは

ROSSO 2020.06.26
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私は、これまでに貴重な体験を幾度となくしてきた。

・ラグジュアリーブランドのセレプションパーティー
・著名人との対談
・企業の買収・売却
・限定品の購入
・世界規模の祭典への参加


すべて私の力ではなく、あくまでも他者の介入があってこれらの機会を得ているわけだが、数十年前まで片田舎で学生生活を送っていた私にとっては、どれも眩いほどの空間であったことを記憶している。

しかし、私にとって「これ以上ない」と言う文字が付く経験は、華やかしい空間でも人が羨む時間でもない。それは、「社会問題への関わり」である。

学生の頃は、よく戦争や貧困、飢餓、環境といったさまざまな社会問題について、ディベートを行ったり、議論をしたりした記憶がある。しかし、それはあくまでも授業や講義の一環で、実際に解決したいと思うこともなければ身近な問題でもなかったため、ありきたりな解答や解決方法を論じていたに過ぎない。

しかも、授業や講義が終われば、何について論じていたかも忘れる始末。学生時代、いかに勉強を真剣に取り組んでいなかったかがわかる思い出である。


そして、現在。私は多くの媒体を通じて、社会問題を目にする機会がある。しかも、戦争や飢餓といった世界規模の問題ではなく、貧困や環境、雇用、教育といった一歩間違えれば自分が直面していたかもしれない問題なのだ。

学生時代、それらの問題すべてを「他人事」としか受け取れなかった私は、20代の多くの時間を費やし、それらの社会問題を改善したり、対処したりするための団体を訪問した。そこで多くの人と話し、さまざまなことを経験する中で、いかに自分の環境が恵まれていて、当たり前が当たり前ではない日常があることをまじまじと見せつけられた。

これまで多くの場面で、「一瞬一瞬を大切にしたい」や「誰かの人のためになりたい」というような常套句を聞いてきた。しかし、あくまでも個人的な意見であるが、往々にしてそういう人たちがこういった問題に目を向けているところを見たことがない。

そこで、20代半ばの私は士業の方々と相談し自分の稼ぎを細分化して、その年に関心のある団体や個人に対して法律の範囲内で寄付・寄贈することにしたのだ。これだけ聞けば立派な人と思うかもしれないが、正直なところこの問題が解決・改善されなければ、誰の苦労も報われないのだ。

もちろん日々前進しているし解決に向けてあらゆる方向性からさまざまな人が知識やアイデアを出していることは承知している。しかし、数値やデータから見ても各問題が解決に向かう兆しは一向に見られない。
そして、その問題に対して私ができることも微力であるため、日々自分の不出来に痛感させられているのだ。

これは、私の価値観を改めさせられた出来事の一つである。以前、私はとある教育施設におじゃましたことがある。そこでは、両親がいない子供や、訳あって一緒に暮らせない子供が預けられていた。

この時点で、当たり前に両親や祖父母がいた私からすれば常識ではない領域であるが、さらにそこで働く職員の方と話す機会があった。職員の方々には、この施設の置かれている現実や問題意識、どのような物が不足しているかなど、さまざまな現状を教えて頂いた。どの話も、ニュースや雑誌からは知ることができない貴重なお話だったし、切実な問題でひどく胸を痛めたことを今でも鮮明に覚えている。

そこに通う小学校の子供と、中学生の子が近寄ってきた。なんでこの場所に来たのか、なんの仕事をしているのか、一通り私の自己紹介を終えたところで、私も2人にいろんなことを聞くことにした。

そこで、2人の「夢」について聞いた。小学生の子は、「スポーツ選手」と輝かしい夢を答えてくれた。しかし、中学生の子の答えは「お金持ち」だった。

「なんでお金持ちになりたいの?」と聞くと、「私と同じ境遇の子供に対して、すごく立派な施設(家)を建ててあげたい。それを叶えるにはお金持ちになるしかない。」とのことだった。

ただの「授業の一環」としか受け入れられなかった自分と、境遇が違うだけでこれほどまでに明確な夢が持てるものなのかと、当時の私はなかなか理解できなかった。しかし、この子の言葉を機に、私はこの教育施設に毎年不足している物や勉強や学習に必要な教材や品物を寄付している。お金持ちになりたいと答えた中学生の子とも今でも交流を持っている。そして、毎年できる範囲でさまざまな社会問題に目を向け、自分ができることをこなすようにしている。

日本では、まだ欧米諸国のように寄付や寄贈に対する税制や法整備が確立されておらず、富裕層が積極的に資金を出しやすい環境が構築されていない。しかも社会問題に対する認識も甘いため、一向に解決の兆しがない。私ができることは微力かもしれないが、少しでも後世の人たちが平等かつ平和に暮らせる日々を当たり前に享受できるよう、これからも尽力していきたい。

これが、私の「これ以上ない」経験の一つである。
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