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タージ・マハールは空の上

Mimi 2018.02.26

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アグラのホテルの5階から   チェックインしたホテルの部屋。 レースのカーテンを引く。 ププー、ブブー、 フォー、キッキッキー。 眼下の道、 車が、バイクが、三輪タクシーが すさまじい騒音を発しながら道を駆け抜ける。 薄暮の中、ライトが眩しい。 密集した家、家、家。 目を上げて行く。上へ、上へ、上へー 家、家、家。 もっと目を上げると、 ほら、見よ、 空と地の境、 白い霧の中に、 空と同化するように、 あなたは立つ。   タージ・マハール!      上の詩は、ホテルの部屋から、初めてタージ・マハールを見たときに書いた。その驚き、喜びは、たとえ遠くても、初めて富士山を見たときの感動に匹敵する。      日本からの直行便でデリーに到着してからは、アグラまで長い道のりだった。道は混雑を極め、2月というのにかぁっと照りつける陽射し。その熱気の中に自動車のホーンの音があちこちで響き渡る。10人以上も犇めき合って乗っている乗合自動車が行き交う。バイクもトラックもバスも我先にわずかな空間に入り込もうとして、無法地帯みたいだ。    野良犬っていうのは見たことがあるが、野良牛とか野良ヤギがそこら中を歩き回ったり、群をなして座っている。道路脇に丸い円盤状のものが積み上げられている。牛の糞を乾燥させているのだ。    道行く色とりどりのサリーの女性たち。ターバンの男たち。道路に沿って立ち並ぶ小さい店。看板は読めないが、道路側には壁もドアもなく、何の商売しているのかが一目瞭然。    国が違えばマナーも違う。女の人たちが道端で集団で用を足していた。平気でお尻丸出し。体を見せないように長いサリーを着ていると聞いていたが――。  これがインドなのだ。そうやって辿りついたホテルは、高級感漂う現代的な建物。ようやく文明社会に戻ったような気がしたのだが、窓の下には果てしなくごみごみした家並みが広がり、騒音に満ちた道路がうねうねと続く。だが、目を地平線まで持って行くと、タージ・マハールが超然と姿を現していたのだ。薄グレーのシルエットでしかないが、何という気品。    翌朝、6時半にホテルを出て、ヤムナ側の対岸からのタージ・マハールの日の出を見に行った。草叢、その後ろに川霧が白く立ち上り、川向うの薄暗がりの中に浮かぶタージ・マハールのシルエット。あたりにはビルも住宅もない。タージ・マハールを建てたシャー・ジャハーンの時代にタイムスリップしたかのようだ。    こんなに美しい情景があるだろうか、と見とれていると、木立の間にきらりと赤く光る物。それがみるみる輝きを増す。日の出が始まったのだ。鈍色の東の空も赤く染まり、金色の雲がたなびき、タージ・マハールのシルエットは更にはっきりする。    日の出前にこれ以上に美しい景色はないと思っていたのに、更に美しい景色が存在した。    その数時間後、わたしは本物のタージ・マハールの中に入ることになる。  遠くから見て美しいと思ったものが、近くで見るとあらが見えてそれほどでもない、ということはよくあることだ。それを恐れていたのに、タージ・マハールはどんなに眼を近づけて見ても、完璧だった。    白い大理石に施された精緻な象嵌。内部に入ると、皇帝と妃の石の棺桶が二つ並んでいる。外に出ると、東西南北どこから見ても全く同じ姿だ。ただ、正面になるところの前には門まで水路があるのでわかりやすい。    タージ・マハールには絵の道具の持ち込みが禁止されている。だから、私がせっかく日本から運んできたいろいろな描画道具やスケッチブックは出番がなかった。だが、小さな手帳にささっと鉛筆のメモを取る。手を通して記憶にとどめ置くように。    夜、アーユル・ヴェーダを受けた。施術の最後には、第三の目と呼ばれる額の真ん中にオイルが垂らされる。暖かなオイルがゆるゆると額に垂らされ、耳の脇に置かれた金盥に流れ落ちる。 チョロリロリロ、リロリロチョロ、リロリロチョロリリリチョロチョロ。 間断無く耳の脇で落ちるオイルの奏でる心地よい音。水琴窟の音を聞いているようだ。    心が沈静化し、深い眠りに入ったような境地になるのに、どこか精神の奥底の部分が研ぎ澄まされている。悠久のインドの歴史が脳裏をよぎる。 チョロリロリロ、リロリロチョロ、リロリロチョロリリリチョロチョロ。    シバの幼い息子が、ママの入浴シーンを見ている。それを不躾な男と勘違いしたシバは首を刎ねる。ああ、息子の首を刎ねてしまった。シバは息子の首が見つからなくて象の首を付ける。ガネーシャだ。インド人って神様の時代から嫉妬深かったのか。   チョロリロリロ、リロリロチョロ、リロリロチョロリリリチョロチョロ。    次に浮かんだのは、アグラ城で愛を紡ぐシャー・ジャハーンと妻のムムターズ・マハール。庭の噴水からはバラの香水が噴出して、あたりにバラの香りが立ち込めている。何という豪華な時。 チョロリロリロ、リロリロチョロ、リロリロチョロリリリチョロチョロ。    そしてムムターズの死。私の死後は再婚しないで、子供たちの面倒をよく見てね。そして大きなお墓を建ててね、と言い残して36歳の妻は産褥熱で亡くなった。18歳で結婚し、14人の子を産み、最愛の妻であり続けた稀有の女性。 チョロリロリロ、リロリロチョロ、リロリロチョロリリリチョロチョロ。    シャー・ジャハーンは22年かけてタージ・マハールを完成させた。完成した時に、褒美を取らせると言って工匠を呼び出した。だが、シャーは、工匠の手を切り落とす。「これが褒美だ」と言い放ちながら。シャーは、工匠が密かにムムターズを慕っていたと邪推したのだ。シバ神の時から続く嫉妬の構図か。 チョロリロリロ、リロリロチョロ、リロリロチョロリリリチョロチョロ。    タージ・マハールの設計者であるヴェネチア人は首を刎ねられた。これ以上美しいものを考え出さないように。 チョロリロリロ、リロリロチョロ、リロリロチョロリリリチョロチョロ。    ああ、何という残酷な歴史。そしてシャー・ジャハーン自身も自分の実の息子に8年間幽閉されたあげくに死んだ。シャーの幽閉されていたのは、タージ・マハールを見はるかす、かつてムムターズと愛を育んだ、城の一画。美しい大理石の象嵌で覆われた部屋と小さなコート。シャーは一体何を考え、何をしてここで無為の8年間を過ごしたのだろう。 チョロリロリロ、リロリロチョロ、リロリロチョロリリリチョロチョロ。    私の両目はタオルで塞がれ、第三の目にはオイルがゆるゆる垂らされ続けている。 チョロリロリロ、リロリロチョロ、リロリロチョロリリリチョロチョロ。    すると心の目の中にタージ・マハールが浮かび上がる。ホテルの窓から下を見て、喧噪の道路からどんどん目を上げて行くとタージ・マハールに行きついたように、嫉妬や陰謀の歴史のドロドロにも動じないタージ・マハールの崇高な姿。   チョロリロリロ、リロリロチョロ、リロリロチョロリリリチョロチョロ。    ああ、タージ・マハールは空間的にも時空的にもすべてを超越しているんだ、と気づいた途端、オイルが止まり、音が途絶え、両目のタオルが外された。
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