

森英恵展に行く
Mimi 2026.07.10
六本木の国立新美術館にJunkoさんと森英恵展を見に行った。正式名称は、「生誕100年―森英恵―ヴァイタル・タイプ」という。Junko さんの持つ招待状があったのは有難い。
リーフレットに寄れば、ヴァイタル・タイプ(Vital Type)とは、1961年に『装苑』に提唱した言葉で、「生き生きと生命力に溢れ、敏捷げに目を光らせた女性」を指すとのこと。 1965年には活動の場をニューヨークに広げ、コレクション・デビューを果たした森英恵こそ、ヴァイタル・タイプの権化であると言えよう。
ご一緒したJunkoさんは高校の時の同級生で、建築家。ハイエンドの住宅を作る。 彼女も私も大学生の頃、森英恵の服を着て育った世代。だから、「森英恵」という響きは、親しみやすく、懐かしい。
私には森英恵に関して、女子大の附属中学時代の思い出がある。校庭での全校朝礼の時に、落し物の発表をしたのは新任の男の先生だった。
「このピンクのハンカチ、誰か落とし主はいませんか?あっ、名前が書いてありました。
森英恵さん、森英恵さんはいませんか?」全校生徒が、どっと笑い出した。森英恵を知らない人がこの世に存在するなんて、という驚きの笑い。その渦の中で怪訝な様子で立ちつくす若い教師。私は、その教師を笑えないどころか、心から気の毒に思ったものだ。
今回の展覧会の会場に入った途端、美しい色や柄の氾濫。昔、服を身にまとって楽しかった気分が戻って来る。大学生の頃には、母は森英恵の服なら喜んで買ってくれたのだ。
父の仕事関係の外国要人とのレセプションに、母の替わりに出る時に着たのがハナエモリの服だった。周りの日本人の夫人たちは訪問着を着ている。私は着物に遜色ないハナエモリの服を着て大人の仲間入りし、外国人との英会話の練習も出来て嬉しかった。音楽会や美術館にも着て行った。そう、ダンパーと呼ばれたダンスパーティにも。タンゴ、ルンバ、ワルツ・・・、スカートを翻して。一連の忘れかけた思い出が一気に蘇る。
展覧会の服は概ね年代順に並べられているのだが、Junkoさんと、「そう、私たちの時にはこの生地でこの形よね」と、語り合いながら共通の思い出に浸れるのは何とも嬉しい。服との同窓会みたい。
会場には、古いプロモーションヴィデオも上映されている。それを見ていてふと、映画「プラダを着た悪魔」の一シーンを思い出した。春の号の編集会議の時に、メリル・ストリープ演じる編集長は、部下が提案した花柄の服を工業地帯で撮影するという案を一蹴する。女性らしい花柄と荒削りの背景とのコントラストというアイデアが古くさいからだ。
だが、森英恵のプロモーション・ヴィデオこそ、正にその一蹴されたアイデアなのである。 色とりどりのひらひら衣装を着たモデル達は、竹林、田んぼ、古い石垣、寺、といった日本古来の風景と、あるいは高速道路、前衛的なコンクリ建築物と組み合わされている。
森英恵は対比の妙を提案し、それが時が経つにつれクリシェとなって廃れても、時代の波を潜り抜け、生き延びた稀有のデザイナーだ。皇太子妃になられる雅子様のウェディング・ドレスも彼女のデザインだった。
展覧会を歩くうち、私のクローゼットには鮮やかな花模様の森英恵の服が残っているのを思い出した。若くて無知だった頃の服。世の中の不合理に無頓着だった自分。なんてアホだったのだろうと思う反面、そんな無垢の自分が眩しくも思える。
森英恵の服を着る機会が減ったのは、東京都の作文応募に合格し、中国に行った時が、転換点だったような気がする。行く先々で紅衛兵が躍って出迎えてくれる。至る所に毛沢東の肖像。どこを見渡しても、町でも村でも老若男女全員が青い人民服を着ている。未婚の女性はおさげ、既婚の女性はショートと、髪型まで決まっている。見た目だけではない、頭の中まで統制されている。事前のレクチャーで、くれぐれも地味な服を着るように言われていたので、グレーや茶の服ばかり持って行ったのだが、中国は、そんな地味な服さえも着るのに気がひけてしまうようなところだった。
自分は、このような国に住まなくて良かった、という安堵感とともに、若くておしゃれしたい時期に一律の人民服を強制され、毛沢東を讃えている人がいる、という事実が、心にのしかかった。帰国後私は、以前のふわふわ楽しく生きていた自分に決して戻れなくなってしまった、と言うか、人目には楽しく生きているように見えるかもしれないが、心の片隅にはあの人民服の人たちが鎮座している、という二重生活を送っているようだった。
森英恵の展覧会に行く前は、昔着た服ともう一度遭えるかもという期待と懐かしさでいっぱいだったが、それは同時に、森英恵の服で始まった自分の青春時代の道筋を辿るよすがとなった。

国立新美術館の入り口
リーフレットに寄れば、ヴァイタル・タイプ(Vital Type)とは、1961年に『装苑』に提唱した言葉で、「生き生きと生命力に溢れ、敏捷げに目を光らせた女性」を指すとのこと。 1965年には活動の場をニューヨークに広げ、コレクション・デビューを果たした森英恵こそ、ヴァイタル・タイプの権化であると言えよう。


リーフレットの表裏
ご一緒したJunkoさんは高校の時の同級生で、建築家。ハイエンドの住宅を作る。 彼女も私も大学生の頃、森英恵の服を着て育った世代。だから、「森英恵」という響きは、親しみやすく、懐かしい。
私には森英恵に関して、女子大の附属中学時代の思い出がある。校庭での全校朝礼の時に、落し物の発表をしたのは新任の男の先生だった。
「このピンクのハンカチ、誰か落とし主はいませんか?あっ、名前が書いてありました。
森英恵さん、森英恵さんはいませんか?」全校生徒が、どっと笑い出した。森英恵を知らない人がこの世に存在するなんて、という驚きの笑い。その渦の中で怪訝な様子で立ちつくす若い教師。私は、その教師を笑えないどころか、心から気の毒に思ったものだ。
今回の展覧会の会場に入った途端、美しい色や柄の氾濫。昔、服を身にまとって楽しかった気分が戻って来る。大学生の頃には、母は森英恵の服なら喜んで買ってくれたのだ。
父の仕事関係の外国要人とのレセプションに、母の替わりに出る時に着たのがハナエモリの服だった。周りの日本人の夫人たちは訪問着を着ている。私は着物に遜色ないハナエモリの服を着て大人の仲間入りし、外国人との英会話の練習も出来て嬉しかった。音楽会や美術館にも着て行った。そう、ダンパーと呼ばれたダンスパーティにも。タンゴ、ルンバ、ワルツ・・・、スカートを翻して。一連の忘れかけた思い出が一気に蘇る。
展覧会の服は概ね年代順に並べられているのだが、Junkoさんと、「そう、私たちの時にはこの生地でこの形よね」と、語り合いながら共通の思い出に浸れるのは何とも嬉しい。服との同窓会みたい。

大学生の頃に着ていたような服
会場には、古いプロモーションヴィデオも上映されている。それを見ていてふと、映画「プラダを着た悪魔」の一シーンを思い出した。春の号の編集会議の時に、メリル・ストリープ演じる編集長は、部下が提案した花柄の服を工業地帯で撮影するという案を一蹴する。女性らしい花柄と荒削りの背景とのコントラストというアイデアが古くさいからだ。
だが、森英恵のプロモーション・ヴィデオこそ、正にその一蹴されたアイデアなのである。 色とりどりのひらひら衣装を着たモデル達は、竹林、田んぼ、古い石垣、寺、といった日本古来の風景と、あるいは高速道路、前衛的なコンクリ建築物と組み合わされている。
森英恵は対比の妙を提案し、それが時が経つにつれクリシェとなって廃れても、時代の波を潜り抜け、生き延びた稀有のデザイナーだ。皇太子妃になられる雅子様のウェディング・ドレスも彼女のデザインだった。
展覧会を歩くうち、私のクローゼットには鮮やかな花模様の森英恵の服が残っているのを思い出した。若くて無知だった頃の服。世の中の不合理に無頓着だった自分。なんてアホだったのだろうと思う反面、そんな無垢の自分が眩しくも思える。
森英恵の服を着る機会が減ったのは、東京都の作文応募に合格し、中国に行った時が、転換点だったような気がする。行く先々で紅衛兵が躍って出迎えてくれる。至る所に毛沢東の肖像。どこを見渡しても、町でも村でも老若男女全員が青い人民服を着ている。未婚の女性はおさげ、既婚の女性はショートと、髪型まで決まっている。見た目だけではない、頭の中まで統制されている。事前のレクチャーで、くれぐれも地味な服を着るように言われていたので、グレーや茶の服ばかり持って行ったのだが、中国は、そんな地味な服さえも着るのに気がひけてしまうようなところだった。
自分は、このような国に住まなくて良かった、という安堵感とともに、若くておしゃれしたい時期に一律の人民服を強制され、毛沢東を讃えている人がいる、という事実が、心にのしかかった。帰国後私は、以前のふわふわ楽しく生きていた自分に決して戻れなくなってしまった、と言うか、人目には楽しく生きているように見えるかもしれないが、心の片隅にはあの人民服の人たちが鎮座している、という二重生活を送っているようだった。
森英恵の展覧会に行く前は、昔着た服ともう一度遭えるかもという期待と懐かしさでいっぱいだったが、それは同時に、森英恵の服で始まった自分の青春時代の道筋を辿るよすがとなった。

森英恵がデザインした、雅子様のウエディング・ドレス


映画に使われたコスチュームが、映画のシーンと共に展示されている







会場風景



森英恵の服には、鮮やかなプリントが欠かせない

オペラ、マダム・バタフライの婚礼衣装



