愛する物に会いに行く

Mimi 2019.06.26
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 好きなものは、自分の身近に置いておきたい。だが、そうはいかないという場合は多々ある。例えばアイスクリーム。アイス大好きのわたしは、うちの冷凍庫にあれば、ついあるだけ食べてしまう。だからと言って、買うのを我慢するのは辛い。そこで、家のそばのファミマをうちの冷蔵庫と考えることにした。食べたいときには、そこに取りに行けばいい。広大な家に住んでいれば、冷蔵庫まで数十メートル歩くなんてあり得ることだ。

 絵画も然り。画廊の絵は入手できても、美術館の絵は持って帰れないので、お気に入りの絵を見つけると、美術館に預けてあると思うことにした。私のお気に入りは、各地の美術館に散っている。ただ、うろたえることも。上野の西洋美術館のスーチンの「狂女」など、もうすぐその絵に会えると思うだけでわくわくドキドキするほど好きな絵だ。ところが、ある時突然長期間展示替えで見られなくなり、悲しい思いを味わわされた。

 友達と美術館に行くと、わたしは「どの絵を貰って帰る?」と、好きな絵を選んでもらう。同じ絵が好きなら、「じゃあ、それをあなたに譲るわ。わたしは、これにする」などと、ケーキ屋さんのウィンドーで最後の一個のイチゴタルトをどちらが食べるかみたいな会話をする。

 さて、この度、わたしは、関西のお気に入りに会いに行った。ミホミュージアム、佐川美術館、東洋陶磁美術館である。時間があったので、楽美術館と細見美術館にも足を運んだ。

 ミホ、佐川、東洋陶磁美術館に行くのは数年ぶりだ。ミホの場合、アメリカから日本の美術館ツアーに参加したアメリカ人たちに、数多く訪ねた日本の美術館でダントツに気に入った美術館だと言われたのが、行くきっかけとなった。勧めてくれた人たちは、その山の中の自然の美しさ、トンネルを抜けて現れる美術館自体の建築の美しさ、そして展示品の質の高さを絶賛していた。雪の季節になると閉まってしまい、春まで開かないというのも、魅力の一つのようだった。

私も初めて行った時には、目に眩しいような山の緑と、その広大な管理された庭に圧倒された。何百本もある、きちんと剪定された松を見て、うーん、この剪定料だけでいくらになるのかしら、などと下世話なことを考えたものだ。

実はミホには、私が好きな常設展示がいくつかある。でも、あえて一つ選ぶならば、ローマ、1世紀の庭園図だ。噴水の出る水盤、花が咲く庭。そしてその空の色と言ったら・・・。セルリアンブルーと言うのだろうか、そこに鳥が群れ飛んでいる。今にも水音や鳥の鳴き声が聞こえてくるようだ。ラヴェンナのガッラ・プラキディアという礼拝堂にも、水盤と鳥の構図のモザイク画があったが、こちらはフレスコ画である。

このフレスコ画を初めて見たとき、感動してその絵を題材にしたワイングラスを陶器で作ったぐらいだ。そのワイングラスで赤ワインを飲むと、よりおいしくなる気がする。

今回の旅では、重要文化財の耀変天目(南宋時代)の茶碗にも目が惹きつけられた。国宝の大徳寺の龍光院の曜変天目は、どちらかといえば渋い星空のイメージだが、こちらは滴形の斑点が、光を受けて虹色に輝き見飽きない。

 佐川美術館の一番のお気に入りは、展示品とは言えないかもしれない。前回行ったときにも感心したのだが、前回と同じ場所に同じ花器に活けられている花が、部屋の薄暗くて静謐な雰囲気にぴったりあっていて惹きつけられるのだ。今まさに開かんとする花を見事に活ける人の技量というより、精神性の高さを感じる。私もこんな絵を描いてみたい。

 生け花を一番のお気に入りにしたのには訳がある。佐川美術館はお宝の宝庫で、選び難いのだ。佐藤忠良館、平山郁夫館、楽吉左衛門館があるが、彫刻、日本画、陶芸という三つのジャンルの作品それぞれが魅力にあふれている。吉左衛門館は、池の下にあり、天井から、太陽と風に姿を無限に変化させる水面の反射が降り注ぐ。勿論吉左衛門の茶碗は見事であるが、例えば私の愚作を展示したとしても、それなりに見映えがするのではないかと思ってしまう。



 京都に一泊して向かった先は、東洋陶磁美術館。伊藤郁太郎の『美の猟犬ーーー安宅コレクション余聞』を読むと、いかに安宅英一が、天性の美しいものを見極める力と、すさまじい執念でコレクションを形成していったかが伝わってくる。そんな中でも私がもう一度是非会いたいのは、加彩 婦女俑。唐時代の高さ50センチほどの女性像である。元は左手に小鳥がとまっていたらしい。それを慈しむように眺めている仕草が愛らしくて、ほれぼれ見入ってしまう。どの位置から見ても見応えがあることを示すように、台座は回転している。

 ぐるーりぐるーり、ゆっくり回転する台座。私が何年も前に見たときにも回転していた。あれから、何千回転、何万回転して来たのだろう。千年以上も前の人形なのに、なんとチャーミングで生き生きしていることか。もとは加彩されていたらしいが、色がなくても十分美しい。閉館時間になり、回転が止まり、電気が消えた後のことを私は想像する。この人は、今までポーズしていた両手を、緩やかに振ってほぐした後、あくびをしながら両手を突き上げて伸びをする。それから、ふわっと横になる。「今日はMimiさんが久しぶりに来てくれたわ。じーっと見てくれて嬉しかった!」そんなことを呟いて眠りにつくような気がするのだ。  そして、私が最後に会いたいのは、壺―――というよりそこに描かれた土波。国宝級や重要文化財の逸品が並ぶ一角にその壺はある。なんの気負いもなくさらりと描かれた青花。その足元にちょん、ちょんとついているのが土波。見落としてしまうかもしれないようなその土波の存在が、どんなに壺に気品と格式を与えることか! 今回も私の目は、土波に釘付けになってしまっていた。

 東洋陶磁美術館には大きな白い壺が展示されている。その脇にある写真を見ると言葉を失う。無残に壊れているのである。それも大きく真っ二つなんていうものではない、細かい破片になっているのだ。盗んだ泥棒が割ったという。

 普通だったら、これだけ割れていたら修理不能と思うだろう。ところが、それは修理されて、もとのように戻ったのだ。この修理の仕方は秘伝だとか。

 お気に入りに会いに行った旅。私は気楽に、「やっと来たわよ。また会えたわね。大好きよ!チュッチュッチュッ」なんて言っていればいいけれど、それを管理する人たちは大変だ。美術館の方々、今後もわたしのお預けしたお気に入り、よろしくお願いしますね。

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