たから物は知識

Mimi 2016.11.24
 文京区の切支丹屋敷跡で発掘された遺骨がシドッチの物だとわかり、復顔されたものが国立科学博物館に展示されていると聞き、馳せ参じた。

 シドッチは1668年、シチリア島パレルモ生まれ。見つかった遺骨はイタリア人が持つゲノムに近いことが判明。埋葬されたイタリア人はシドッチ以外にいないので、彼の遺骨だと判定されたのだ。折しも遺骨の発見はシドッチの没後300年の年にあたるという。 た2-2

【こちらが国立科学博物館のパンフレット】



 国立科学博物館では、シドッチより百年以上後に生まれたシーボルトの展覧会もやっていて、二重の楽しみになった。(シーボルトについては、またの機会に書きたいと思う。)

 シドッチの復顔像は、彼の頭蓋骨と並べて展示されていた。頭蓋骨も完全に残っているわけではないので、復顔も大変だったろうと思われる。土の地下牢に閉じ込められ、過酷な境遇の中で病死した46歳のシドッチ。だが、復顔された表情は清廉で、まったくの苦しみを感じさせない。そういえば、殉教が彼の究極の目標だった。殉教できたことに喜びを見出しているのかもしれない、そんな表情に、おっかなびっくりシドッチの顔を見に行った私はほっとした。た3-2  私がシドッチに興味を持ったのは、新井白石の『西洋紀聞』と『采覧異言』を読んだからである。シドッチは日本にキリスト教を布教する目的で1703年イタリア、ジェノアを出発。屋久島に辿りついたのは、1708年のことだった。捉えられて鹿児島に送られ、その後長崎に送られた。だが長崎の人はポルトガル、スペイン、オランダについては知っていたが、イタリアについての知識はなく、結局彼は江戸に護送されたのである。

 小石川切支丹屋敷内に作られた取り調べの場、そこで、新井白石とシドッチという二人の博学の知識人が知り合うことになった。白石は『西洋紀聞』上巻で、シドッチのことを「凡そ其人博聞強記にして、彼方多学の人と聞えて、天文地理の事に至ては、企及ぶべしとも覚えず。」と書いている。本を読むと、二人が丁々発止渡り合う姿が生き生きと浮かんでくる。

 朱子学の信奉者の白石だが、蘭学の知識もあり、シドッチは白石が差し出したコンパスを使って、ブラウの地図の中のヨーロッパの都市を指し示す。食い入るように地図に身を乗り出す53歳の白石。た4-2 この取り調べは、白石にとってどんなにわくわくする時間であったろう。今まで知られていなかった知識が、この目の前の6尺の大男の口から語られるのだから。これはお互いの間に信頼がないと出来ないことだ。

 シドッチにとっても、ようやく言葉の通じる博学の人と語り合えるまたとない機会であった。また、私にはユーモアのある当意即妙な二人の会話から、心の交流までも感じられる。例えば、ノーワ・ヲヲランデヤ(今のオーストラリア)について白石が尋ねても、シドッチは答えない。

 その理由は、白石が「大きにする事なくしておはすべき人にあらず」つまり、おおきなことをするに違いない人なので、占領するのもたやすいだろう。だから行き方を教えるとその土地を討つ手助けになってしまうから教えられない、と言うのである。

 それに対し白石は、「たとひ其のこころざしありとも、我国に厳法ありて、私に一兵を動かす事はかなひがたし。」と言って笑う。国も宗教も、互いの立場も超えた、自由な人間の会話の断片がここに見いだされる。

『西洋紀聞』は上巻、中巻、下巻に分かれているが、海外事情、キリスト教について書いてある手書きの下巻は、新井家に長く秘密に保管されていたという。白石のような幕府の要職にある人物は、知識に近づくことを許されたが、それを公にすることは自らの首を絞めることになってしまう。

 役人としての人生を全うするためには余儀ないことであった。だからシドッチが1714年の終わり頃、自分の身の回りの世話をする夫婦をキリスト教に改宗させたことにより咎を受け、これまでの客人待遇から地下牢の幽閉生活をすることになった時にも、何の力にもなれなかったに相違ない。

 シドッチの語る話を克明に記録している白石も、シドッチの死については、『西洋紀聞』に、ローマ人が病により10月21日の夜半に死ぬ、と短く記すのみである。

『殉教者シドッティ』において、著者タシナリは、神父としてのシドッチの生涯を詳しく追っている。シドッチの最期について、タシナリは、シャルレヴァアが書いた次の文を紹介している。「彼は動くことも出来ない程狭い四面壁の中に入れられた。其の責苦の中に餓死をした。」尤もタシナリは、「この話をどの程度まで信用することが出来るだろうか」とも書いている。た5-2  ただ、タシナリは、上記のことを裏付けるような穴がいくつも切支丹屋敷に掘られていたことを確認した。一気に死刑にせず、餓死しない程度の薄い粥のみ与えて、苦しみを長引かせて死ぬようにしむける幕府のやり方に、キリスト教に対する、恐れも混じった激しい嫌悪が感じられる。

 三百年後の今、日本は何と自由な国となったか。宗教は自由。知識は誰でも共有できる。外国に行って、自ら文化に接することも出来る。

 江戸時代の人々が切羽詰まった欠落感から希求していた、そういう知識が、求めれば得られるってなんて幸せなことなんだろう。もっと勉強しなくちゃ、と思う。私たちは知識という宝石がばらまかれている中で生きているようなものなのだから。
このカテゴリーの一覧へ